シードグループは、新しい飲食の空間をクリエイトする、業務提携グループ店舗です。

シードグループができるまで

■2010/10/15
シードグループが出来るまで【1】

その①
「CEADグループができるまで」と称して、
私達がどのようにして現在に至ったかを少しずつ書き記していこうと思います。

話は私、「石橋園主任木村誠」と「ねぎしや料理長根岸拓也」が中学生だった
十数年前までさかのぼります。
私は二代目として、根岸は四代目として各自将来のビジョンが
うっすらと見えはじめていた頃でもありました。
スポーツも勉強も人並み。
ただ「人よりも目立ちたい、人より一つでも上にいきたい」
そんな気持ちのかたまりだった二人に
決められたレールの上を歩いていくのは窮屈な考え方でした。
「いつか俺達にしかできない事をやってみたいよな!」
そう言い合って2人が知り合った学舎を後にしたのでした・・・
 
その②
地元の中学を卒業した、私と根岸は、それぞれ別の高校へと進学。
お互いにスポーツや趣味で青春を謳歌し、
二人が再び出会うのは、二十歳になる五年後の事でした。
この五年の間に、私と根岸は多くの人間に出会いまた、
様々な出来事を経験しました。
この頃には、二人の将来のビジョンは明確になっていました。
「自分の家業で一人前になりたい」
同じ志を持った私達は、根岸は東京へ、
私は埼玉へと修行へと旅立つのでした。
また、この頃には根岸の結婚の話もまとまり、
私が友人代表あいさつをしたりと
「人生」というもののビジョンも大きく変わりはじめていた頃でもありました。
大きな期待と見えない不安、
そんな気持ちが交錯していた約10年前の話でした・・・。


■2010/10/15
シードグループが出来るまで【2】


その③
そして、20歳になった私と根岸はそれぞれ修行へと旅立ち・・・。
私、木村は埼玉県は上尾市に本社を置く、
全国に約80店舗を持つ、大手茶業者へと入社しました。
この頃の私は、お茶のノウハウは、もちろん、商品の包装や、伝票処理など、
全く、お手上げ状態で社内では「親のコネで入社したボンボン」とバカにされていました。
事実、私は親のコネで入社したわけでもなく、
ボンボンでもなかったのでそれはそれは無我夢中で茶業に打ち込みました。
3ヶ月を過ぎた頃には梱包も完璧にできるようになり、
お茶の味も甘い、辛いくらいはわかるようになってきました。
毎日、毎日、古新聞で梱包の練習をしたり、
茶碗で何十杯とお茶を飲んだ日々が、今はなつかしく思えます。
この頃からでした・・・。
自分が今在籍している大手企業と
実家の小さな茶商品とのギャップを感じ始めたのは・・・。

その④
一方根岸は、21歳で結婚して、一家の主となりました。
調理師学校を首席で卒業後、地元守谷の料理屋で3年間裏方の仕事をしっかりと学び、
次に偉い立場で仕事をしました。
(この時はなまるマーケットでTV出演)
その後、東京某大手ホテルでも調理の修行を2年重ね、
いよいよ実家に帰り、「料理長」として実家の「のれん」を継ぐ事になりました。
約10年間に及ぶ大組織での料理屋として修業。
それがまた私、木村と同じように、
大手と個人経営のギャップの間で努力、精進していくこととなるのでした。


■2010/10/15
シードグループが出来るまで【3】

その⑤
私、木村は23歳で実家に戻ってきました。
大手企業での販売研修、イベントプランニングなど、
自分なりに身に付けた販売方法や企画を
様々な形で発揮していこうと胸おどらせていました。
しかし、そこで大きな壁にぶつかったわけです。
私が修業をしていた会社は日に何百人とご来店頂けるような大型店舗店舗・・・。
かたや自分の実家は、外商主流の営業店舗。
そうです。
「お客様がご来店して来ない」のです。
毎日の仕事は父親に指示される配達と経験のない営業活動。
「お茶屋で一人前になりたい」。
それはあくまで自分の力量発想での話であって、
同じ「お茶屋」でも、全く違う方法で
道を進んでいかなくてはならなくなってしまったわけです。
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